社員の日常

ふとした光景何気ないリリック

こんにちわ、平岡です。

沖縄に移住をしてきて早半年。

今日はここまでの沖縄生活で一番印象に残った出来事について書いていこうと思います。

とある日曜の夕方頃。
私は最寄りのスーパーからの帰り道にいました。
私の家からスーパーまでの間には大きな橋が一つあり、その橋の下には小さな広場のようなスペースがぽつんと広がっています。

このスペースは近隣の人の憩いの場のようで、
三人家族がバドミントンをしていたり、年配の方が旧交を温めながら、
ワンカップ片手にのんびりお酒を飲んでいたりします。

スーパーへの行き来の途中で見るそのような景色はどこか心温かく、
日本の日常とでも言うべき空気感の漂うその場所を通る事を私はいつも楽しみにしていました。

その日も、私はいつものよう1週間分の食料の入ったレジ袋を両手にぶら下げながら、
誰かあのスペースにいるだろうかと思いながら、スーパーからの帰り道を歩き始めました。

スーパーを出てすぐに差し掛かる大きなトンネルをくぐり抜け、
橋の途中から伸びている階段を下ると、小さなスペースはすぐそこです。

私は、苔むした階段を滑らないようにと一歩一歩慎重に下りきり、小さな広場に辿り着きました。

すると、そこには、今までに見た事のない男子高校生の二人組がいました。
行きの道中ではいなかったので、おそらく、私が買い物をしている間に、そのスペースに来たのでしょう。
二人はスマートフォンから音楽を流しながら、何やらノリノリで騒いでいました。

いつも広がっている日本的風景とは異なるものではありましたが、まあ、こんな日もあるだろうと、私は家へと帰るために、彼らの前を横切りました。

その途中、図らずも、男子高校生達との距離が近づいたことで、
彼らがなぜ、こんな場所で音楽をかけて楽しそうにしているのかが分かりました。

彼らは音楽に、おそらく即興だろう歌詞を乗せて、歌いあっていたのです。
普段、あまりその手の音楽を聞かない私も、
彼らの話すような歌い方でそれがラップであるということに気がつきました。

生でラップを聴くという経験は初めてだったので、これはこれで、初めての経験が出来たのだから悪くないと私は思いました。

さすがに立ち止まってじっくりと聞き入る訳にはいかなかったですが、
両手にレジ袋を下げた状態ではどちらにせよ早く歩くこともできないですから、私の耳には彼らの刻むラップがいくつか耳に入ってきました。

ラップとはこういうものかと思いながら、橋の下に広がる小さなスペースから出ようとしていた私の背中に、最後のラップが届きました。

「俺の運命、ディスティニー♩♪」

彼らの刻む魂のリリックに、私の心は揺れ動きました。

果たして、このリリックは何を意味しているのだろう。
彼らはこの歌詞にどのような意味を込めたのだろう。
そして、思わず頭によぎってしまった彼らに対する思い。

「……もっと英語の勉強をした方がいい」、と。
「君たちの言っていることは『俺の母ちゃん、マイマザー』って言ってるのと同じだよ」、と。

しかし、そのような考えが浮かぶと同時に、私の頭には彼らのリリックに対する異なる考え方もよぎりました。

もしかしたら、彼らはトートロジーを駆使して、
人間が幾年もの年月を重ねて築き上げてきた言語の限界を示したかったのではないか、と

言語の循環性を指摘し、言葉によって形成された表現、論理を否定したかったのではないか、と

彼らの刻んだ「俺の運命、ディスティニー♪♩」というリリックは、
日本の英語教育の産物なのか、
それとも、言語の持つ限界性に挑戦した深い含蓄を含むものなのか。

その答えが知りたくて、私は思わず彼らのいた方を振り返りました。

小さな広場は夕日で赤く染まり、そこでラップを刻む彼らもまた夕日に照らされていました。

その姿は、どこか神の庭で遊んでいるかのような優雅で神々しい風情があり、私の心に新たな考えが去来しました。

これが新しい時代の青春なんだ、と。